Translational Research(TR)という用語(日本語では「橋渡し研究」、「展開研究」、または「トランスレーショナル・リサーチ」)は、もともと抗がん薬と発がん予防の領域に特化して使われ始めましたが、現在では幅広い疾患の薬剤、医療機器、または治療法の初期臨床開発に対しても用いられるようになっています[1]。「bench to bedside」すなわち研究室の実験台で得られた成果を臨床現場で応用できるまで橋渡しをするということであり、基礎研究からおおむね臨床試験における早期段階までのことを指します[2]。TRというと創薬における初期臨床開発プロセスが典型的ととらえられがちですが、「基礎研究の領域と臨床応用の領域を繋ぐ橋を掛けて、基礎研究の成果を臨床実践の場で実証していくための基盤技術開発のための研究」[3]という定義にもとづくならば、TRという用語は医療の広い範囲で使ってよいと思われます。鍼灸領域では創薬の世界ほど大掛かりなものではないですが、やはり基礎研究と臨床研究があり、それぞれの領域の橋渡しをすることによって臨床的な実証や新たな治療法開発をしていくという活動は行われています。その意味では広義のTRと呼べる研究活動が鍼灸の領域にも存在するといってよいでしょう。
TRは必ずしも「bench to bedside」の方向すなわち基礎から臨床へのみ向かうのではなく、「bedside to bench」の方向も必要です。鍼灸の場合、古代中国で発祥して以来経験的な試行錯誤の中で臨床実践がなされており、臨床研究も基礎研究もし尽されているというには程遠い状況です。したがって、基礎から臨床、臨床から基礎という、双方向性の鍼灸TR(bidirectional translational acupuncture research)[4]が必要とされています。「bedside to bench」すなわち臨床から基礎の例として、臨床試験における偽鍼対照群が不活性刺激として適切かどうか、ステンレス鍼を用いた鍼通電療法の際にどのような生理学的・科学的・免疫学的反応が生じるのか、暈鍼の際にどのような末梢血管反応が起こっているのか等々[5]、動物実験に立ち戻って行うべき研究テーマも無限にあります。
鍼灸領域におけるTR(広義のTRを含む)としては、会陰部への非侵害性刺激(ローラー刺激)による排尿収縮抑制が皮膚に接触する素材によって異なることを確認した動物実験結果[6,7]にもとづき高齢女性の過活動膀胱による夜間頻尿に対し柔らかい表面のローラーによる会陰刺激の有効性を検証したダブルブラインド・クロスオーバー・ランダム化比較試験[8,9]の例や、鍼通電刺激でミオスタチンとタンパク質分解系の遺伝子群の発現低下により骨格筋発達と筋萎縮抑制が起こること[10]から二次性サルコペニア治療法の臨床的検証の段階に進もうとしている例[11]などがあります。
TRの基盤となる「bench to bedside」アプローチを可能にするためには、基礎研究の領域と臨床応用の領域に橋を掛け、そこを自由に人と情報が行き来できる組織体制を構築することが必須であるとされています[3]。鍼灸分野では大規模なTRの仕組みを構えることは現実的でないですが、各段階での主要な業務の専門知識を持つ人材と「bench to bedside」の全体像を眺めて把握できる人材を育てる必要があると思います。
(山下仁「トランスレーショナル・リサーチ」鍼灸の世界(桜雲会)2015;125:55-64より)
1. 田中紀子. 基礎から臨床へ-トランスレーショナルリサーチの過去と現在-. 日本薬理学雑誌. 2010; 136(5): 290-293.
2. 中谷純. トランスレーショナル・リサーチ・インフォマティクス(TRI)の現状と展望. 生体医工学. 2006; 44(3): 397-402.
3. 治田俊志. 日本の医薬品開発におけるトランスレーショナルリサーチの役割. Drug Delivery System. 2007; 22(1): 36-42.
4. Langevin HM, Wayne PM, MacPherson H, Schnyer R, Milley RM, Napadow V, et al. Paradoxes in acupuncture research: strategies for moving forward. Evid Based Complement Alternat Med. 2011; 2011: 180805 (doi: 10.1155/2011/180805).
5. 山下仁. 鍼灸の有用性と安全性:臨床的エビデンスと双方向性トランスレーショナル・リサーチ. 日本生理学雑誌. 2014; 76(2)(Pt2): 45-46.
6. 飯村佳織, 宮崎彰吾, 渡邉信博, 堀田晴美. 麻酔下ラットの会陰部皮膚領域に対する触刺激の違いが排尿筋収縮に及ぼす影響. 自律神経. 2014; 51(3): 168-173.
7. 堀田晴美. 機械的な皮膚刺激による膀胱の排尿収縮抑制の神経性メカニズム. 日本生理学雑誌. 2014; 76(2)(Pt2): 46-47.
8. 渡辺信博, 飯村佳織, 桝永浩一, 宮崎彰吾, 金憲経, 粕谷豊, 他. 夜間頻尿を有する高齢女性に対する軽微な皮膚刺激の効果 無作為二重盲検交差試験による検討. 日本自律神経学会総会プログラム・抄録集. 2014: 67回: 130.
9. Iimura K, Watanabe N, Masunaga K, Miyazaki S, Kim H, Kasuya Y, et al. The effect of gentle skin stimulation on elderly woman with nocturia. iSAMS 2014 Tokyo (poster presentation).
10. 高岡裕. 鍼通電刺激による骨格筋幹細胞の活性化の分子メカニズムとその治療応用に向けて. 日本生理学雑誌. 2015; 77(1)(Pt2): 11-13.
11. 高岡裕. 二次性サルコペニアの鍼通電治療:遺伝子発現とシグナル伝達系からの分子エビデンス. 日本東洋医学雑誌. 2013; 64(別冊号): 111.
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